月単位のアーカイブ: 7月 2010

中欧の旅 ② げにうつくしきプラハの街

―百塔の街でのオバマ大統領の核軍縮演説

プラハの新市街には、実ることなく終わった「プラハの春」のバーツラフ広場がある。1960年代、共産主義への批判が高まりより自由な社会をめざすべく改革の機運が高まった1968年から、一気に改革派の自由獲得へ動きが活発になった。それに批判的なワルシャワ条約機構諸国は、改革を阻止するために軍事介入を決行。ヴァーツラフ広場に戦車を乗り入れ、「プラハの春」は実ることなく終結したのだ。その後1989年、再度学生デモが発端となり、共産党政権が崩壊。改革派が第一書記に就任した。無血で改革が成功したため「ビロード革命」といわれている。「プラハの春」は失敗に終わったように見えたが、その間脈々と自由への機運が流れていたのである。プラハには社会主義時代のチェコがわかる博物館(Museum of Communism)がある。マルクスが資本主義はやがて青銅の斧と共に「博物館」入りすると言っていたのに、Communismが博物館入りしている現状をどう説明するのだろうか、思ってしまう。

2009年4月5日のオバマ大統領の演説には、「プラハの春」と「ビロード革命」への敬意が語られており、そのことが自分とヨーロッパ、プラハを繋げたのだといっている。

オバマのプラハ演説のポイントを少し引用する。

米国は、核兵器国として、そして核兵器を使ったことがある唯一の核兵器国として、行動する道義的責任がある。米国だけではうまくいかないが、米国は指導的役割を果たすことができる。

今日、私は核兵器のない世界の平和と安全保障を追求するという米国の約束を、明確に、かつ確信をもって表明する。この目標は、すぐに到達できるものではない。おそらく私が生きている間にはできないだろう。忍耐とねばり強さが必要だ。しかし我々は今、世界は変わることができないと我々に語りかける声を無視しなければならない。

   まず、米国は、核兵器のない世界を目指して具体的な方策を取る。

今朝我々は、核の脅威に対応するため、より厳しい新たな手法が必要なことを改めて思い起こした。北朝鮮が長距離ミサイルに利用できるロケットの実験を行い、再び規則を破った。

しかし誤ってはならない。我々は、そうした道がどこへ至るかを知っている。国々や人びとがそれぞれの違いによって定義されることを認めてしまうと、お互いの溝は広がっていく。我々が平和を追求しなければ、平和には永遠に手が届かない。協調への呼びかけを否定し、あきらめることは簡単で、そして臆病(おくびょう)なことだ。そうして戦争が始まる。そうして人類の進歩が終わる。

その声こそが、今なおプラハの通りにこだましているものだ。それは68年の(プラハの春の)亡霊であり、ビロード革命の歓喜の声だ。それこそが一発の銃弾を撃つこともなく核武装した帝国を倒すことに力を貸したチェコの人びとだ。

人類の運命は我々自身が作る。ここプラハで、よりよい未来を求めることで、我々の過去を称賛しよう。我々の分断に橋をかけ、我々の希望に基づいて建設し、世界を、我々が見いだした時よりも繁栄して平和なものにして去る責任を引き受けよう。共にならば、我々にはできるはずだ(略)。

プラハ城から街を臨む

プラハ城から街を臨む

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百塔の街とカレル橋

百塔の街とカレル橋(中央左)

中欧の旅 ① ウィーンの暑さと世紀末の輝き

今回の旅の目的は、めずらしく組み込まれていたアウシュビッツにいくことと、もう一つは2009年4月5日オバマ大統領が核軍縮演説をしたチェコ共和国、プラハ、フラッチャニ広場から世界一美しいとされるプラハの街を見て感動し、そこで、再度、油絵を描きたいと決意したいという二つだった。エジプトのカイロでトランジット、ウィーン(オーストリア)へ着いた。女帝マリアテレジアと輝ける芸術の都ウィーンなどという感覚に浸るなどとはほど遠く、ただただ暑くて、暑くてびっくり、うんざり。ヨーロッパの熱波は聞いてはいたが37度とか。それに従来クーラーなど要らなかった地では、ホテルもレストランも扇風機さえない。紫外線のきつい熱線で焦げるようだ。気候変動はもう確実なのだ。

オーストリアはハプスブルグ家とともに発展した。この家系は、たくみな政治手腕と婚姻政策によって、神聖ローマ皇帝の地位を世襲するまでになり、日の沈まない帝国といわれた世界帝国建設に成功した。特にマリアテレジア(神聖ローマ皇后・オーストリア女大公・ハンガリー女王・ボヘミア女王)は、学校教育の整備や軍備改革などで政治改革をし、16人の子をなし、娘たちを政略結婚で国を拡大し、優美な文化を華ひらかせた。私の敬愛する与謝野晶子も12人の子どもを持ったが、晶子がオーストリア(イギリス・ベルギー、ドイツ・オランダと合わせて)を訪問したのは1912年のことであった。最盛期を経たオーストリアであったが、晶子は何を感じたのか、衝撃は想像を遙かに超えるほど大きかったことだろう。帰国後晶子は、芸術や文化ではなく、政治や社会問題、女性が職業を持って自立する課題を書くようになった。本物の社会評論家になっていった。

ウィーンの名物はなんといってもコーヒーとケーキ。コーヒーはオスマン・トルコ軍が持ち込んだとか。しかし、ケーキはハプスブルグカ家の歴代皇帝たちの遺産である。食事の後にはものすごくでっかいケーキが出る。しかし、今回の食事には、前回(2006年)時のようなサイズではなかった。日本人観光客向きに量を減らしたとしか思えない。コーヒーとケーキとモーツァルトやヴェートヴェン、ハイドン、ブラームス、シューベルト、ヨハン・シュトラウス(二代)、マーラーなどの楽聖たちの活躍。そして、ウィーンが世界に誇る輝かしい絵画では、グスタフ・クリムトやエゴン・シーレ、アルフォンム・ミュシャ(出身ははチェコ)たちがいる。世紀末、アール・ヌーヴォーの花が大きく咲いた地である。

マリアテレジアの家族  シェーンブルン宮殿にて

マリアテレジアの家族:シェーンブルン宮殿にて

マリア・テレジアは1740年から1760年までに16人出産、内3人を1754年までに亡くしている。1754年の上の絵には12人が描かれている。アントワネットは誕生していないので描かれていない。

デパートのピンクリボン

デパートのピンクリボン

(マジョリカハウス 壁面の装飾は赤いバラの木。マジョリカ焼きのタイルを使用)

マジョリカハウス 壁面の装飾は赤いバラの木。マジョリカ焼きのタイルを使用

19世紀末アール・ヌーヴォーの影響は建築にも。マジョリカハウスはその代表オットー・ワーグナー(1841-1918)の作品。アパートは現在も使われている。

(時差ぼけなのか、27日深夜NHKBSで映画「枢機卿」:1962年アメリカ作品を見た。
オーストリアで、ヒットラーがカソリックをも殺戮の対象にしていく過程が描かれていた。カソリックの理想を追う、しかし優柔不断な青年司祭が、妹の妊娠・死(中絶は悪)、人種差別やナチズムに反発といった過程を経て枢機卿になり、渡米するまでを描く。傍観者としてのアメリカの立場が鮮明に見える。教会は「ヒットラーも同民族だから、我々は大丈夫」と甘く信じていたのだ。)