中欧の旅②  げにうつくしきプラハの街

―百塔の街でのオバマ大統領の核軍縮演説

プラハの新市街には、実ることなく終わった「プラハの春」のバーツラフ広場がある。1960年代、共産主義への批判が高まりより自由な社会をめざすべく改革の機運が高まった1968年から、一気に改革派の自由獲得へ動きが活発になった。それに批判的なワルシャワ条約機構諸国は、改革を阻止するために軍事介入を決行。ヴァーツラフ広場に戦車を乗り入れ、「プラハの春」は実ることなく終結したのだ。その後1989年、再度学生デモが発端となり、共産党政権が崩壊、改革派が第一書記に就任した。無血で改革が成功したため「ビロード革命」といわれている。「プラハの春」は失敗に終わったように見えたが、その間脈々と自由への機運が流れていたのである。プラハには社会主義時代のチェコがわかる博物館(Museum of Communism)がある。マルクスが資本主義はやがて青銅の斧と共に「博物館」入りすると言っていたのに、Communismが博物館入りしている現状をどう説明するのだろうか、思ってしまう。

2009年4月5日のオバマ大統領の演説には、「プラハの春」と「ビロード革命」への敬意が語られており、そのことが自分とヨーロッパ、プラハを繋げたのだといっている。

オバマのプラハ演説のポイントを少し引用する。

米国は、核兵器国として、そして核兵器を使ったことがある唯一の核兵器国として、行動する道義的責任がある。米国だけではうまくいかないが、米国は指導的役割を果たすことができる。

今日、私は核兵器のない世界の平和と安全保障を追求するという米国の約束を、明確に、かつ確信をもって表明する。この目標は、すぐに到達できるものではない。おそらく私が生きている間にはできないだろう。忍耐とねばり強さが必要だ。しかし我々は今、世界は変わることができないと我々に語りかける声を無視しなければならない。

   まず、米国は、核兵器のない世界を目指して具体的な方策を取る。

今朝我々は、核の脅威に対応するため、より厳しい新たな手法が必要なことを改めて思い起こした。北朝鮮が長距離ミサイルに利用できるロケットの実験を行い、再び規則を破った。

しかし誤ってはならない。我々は、そうした道がどこへ至るかを知っている。国々や人びとがそれぞれの違いによって定義されることを認めてしまうと、お互いの溝は広がっていく。我々が平和を追求しなければ、平和には永遠に手が届かない。協調への呼びかけを否定し、あきらめることは簡単で、そして臆病(おくびょう)なことだ。そうやって戦争が始まる。そうやって人類の進歩が終わる。

その声こそが、今なおプラハの通りにこだましているものだ。それは68年の(プラハの春の)亡霊であり、ビロード革命の歓喜の声だ。それこそが一発の銃弾を撃つこともなく核武装した帝国を倒すことに力を貸したチェコの人びとだ。

人類の運命は我々自身が作る。ここプラハで、よりよい未来を求めることで、我々の過去を称賛しよう。我々の分断に橋をかけ、我々の希望に基づいて建設し、世界を、我々が見いだした時よりも繁栄して平和なものにして去る責任を引き受けよう。共にならば、我々にはできるはずだ(略)。

プラハ城から街を臨む

プラハ城から街を臨む

image010

百塔の街とカレル橋

百塔の街とカレル橋(中央左)

中欧の旅①  ウィーンの暑さと世紀末の輝き

今回の旅の目的は、めずらしく組み込まれていたアウシュビッツにいくことと、もう一つは2009年4月5日オバマ大統領が核軍縮演説をしたチェコ共和国、プラハ、フラッチャニ広場から世界一美しいとされるプラハの街を見て感動し、そこで、再度、油絵を描きたいと決意したいという二つだった。エジプトのカイロでトランジット、ウィーン(オーストリア)へ着いた。女帝マリアテレジアと輝ける芸術の都ウィーンなどという感覚に浸るなどとはほど遠く、ただただ暑くて、暑くてびっくり、うんざり。ヨーロッパの熱波は聞いてはいたが37度とか。それに従来クーラーなど要らなかった地では、ホテルもレストランも扇風機さえない。紫外線のきつい熱線で焦げるようだ。気候変動はもう確実なのだ。

オーストリアはハプスブルグ家とともに発展した。この家系は、たくみな政治手腕と婚姻政策によって、神聖ローマ皇帝の地位を世襲するまでになり、日の沈まない帝国といわれた世界帝国建設に成功した。特にマリアテレジア(神聖ローマ皇后・オーストリア女大公・ハンガリー女王・ボヘミア女王)は、学校教育の整備や軍備改革などで政治改革をし、16人の子をなし、娘たちを政略結婚で国を拡大し、優美な文化を華ひらかせた。私の敬愛する与謝野晶子も12人の子どもを持ったが、晶子がオーストリア(イギリス・ベルギー、ドイツ・オランダと合わせて)を訪問したのは1912年のことであった。最盛期を経たオーストリアであったが、晶子は何を感じたのか、衝撃は想像を遙かに超えるほど大きかったことだろう。帰国後晶子は、芸術や文化ではなく、政治や社会問題、女性が職業を持って自立する課題を書くようになった。本物の社会評論家になっていった。

ウィーンの名物はなんといってもコーヒーとケーキ。コーヒーはオスマン・トルコ軍が持ち込んだとか。しかし、ケーキはハプスブルグカ家の歴代皇帝たちの遺産である。食事の後にはものすごくでっかいケーキが出る。しかし、今回の食事には、前回(2006年)時のようなサイズではなかった。日本人観光客向きに量を減らしたとしか思えない。コーヒーとケーキとモーツァルトやヴェートヴェン、ハイドン、ブラームス、シューベルト、ヨハン・シュトラウス(二代)、マーラーなどの楽聖たちの活躍。そして、ウィーンが世界に誇る輝かしい絵画では、グスタフ・クリムトやエゴン・シーレ、アルフォンム・ミュシャ(出身ははチェコ)たちがいる。世紀末、アール・ヌーヴォーの花が大きく咲いた地である。

マリアテレジアの家族  シェーンブルン宮殿にて

マリアテレジアの家族:シェーンブルン宮殿にて

マリア・テレジアは1740年から1760年までに16人出産、内3人を1754年までに亡くしている。1754年の上の絵には12人が描かれている。アントワネットは誕生していないので描かれていない。

デパートのピンクリボン

デパートのピンクリボン

(マジョリカハウス 壁面の装飾は赤いバラの木。マジョリカ焼きのタイルを使用)

マジョリカハウス 壁面の装飾は赤いバラの木。マジョリカ焼きのタイルを使用

19世紀末アール・ヌーヴォーの影響は建築にも。マジョリカハウスはその代表オットー・ワーグナー(1841-1918)の作品。アパートは現在も使われている。

(時差ぼけなのか、27日深夜NHKBSで映画「枢機卿」:1962年アメリカ作品を見た。
オーストリアで、ヒットラーがカソリックをも殺戮の対象にしていく過程が描かれていた。カソリックの理想を追う、しかし優柔不断な青年司祭が、妹の妊娠・死(中絶は悪)、人種差別やナチズムに反発といった過程を経て枢機卿になり、渡米するまでを描く。傍観者としてのアメリカの立場が鮮明に見える。教会は「ヒットラーも同民族だから、我々は大丈夫」と甘く信じていたのだ。)

ノルウェイ大使館にアニータさんを訪ねて

東京南麻布のノルウェイ大使館を訪問しました。やっと面会がかなったのです。アニータ・プラタップ(Anita Pratap)さんは有名なジャーナリストですが、ノルウェイ大使夫人でもあるのです。しばらくお待ちすると長身のご本人が現れました。しかし通訳は今日はいないとのこと!私は覚悟を決めてテープレコーダーのスイッチを入れました。

アニータ・プラタップ(Anita Pratap)さん

ノルウェイ大使館でアニータ・プラタップ(Anita Pratap)さん

アニータさんはインド国籍をお持ちで、TIME誌やCNN(南アジア支局長)記者で映画制作にも活躍してこられました。スリランカやアフガニスタンの最前線での従軍記者でもありました。ジャーナリストとしていくつもの賞に輝いておられます。彼女の書かれた”Island of Blood”(血潮に染まる島)(2003年PENGUIN USA)はスリランカ、アフガニスタンと他の南アジアの最前線レポートです。アニータさんは80年代から90年代、何度も何度も、正面から取材するための現地へ向かっています。戦争、民族紛争、地震、サイクロンや干ばつ、悲惨な自然環境のもとでの人種差別、性差別、宗教的な差別と思慮のない憎悪と恐れが繰り返される現場を忠実に語られています。(身の毛もよだつ光景にであった。7人若い男性の拷問死体が道路の真ん中投げ出されていた・・・というような調子です。)
いちばん興味のあることから質問することにしました。

Q. アルネ・ロイ・ウォルター(Arne Roy WALTHER)大使とはいつ、どうして知り合われたのですか?
A.私はインド生まれ、インドで教育も受けました。その後ジャーナリストとして仕事をしていたのですが、彼が1995年インド大使(バングラディシュ、ブーアン、ネパール、スリランカ兼轄)として赴任してきたのです。そこで知り合ったのです。

Q.アニータさんは、ノルウェイとインドの両方の文化を理解しておられるのですが、女性の問題や女性が働くことについて比較してどう思われますか?
A.インドとノルウェイを比較して論じるというのはまず無理です。違いすぎます。レベルも、人口規模も違いすぎます。インドは11億でやがて13臆の中国を超えるだろうとも言われています。ノルウェイは500万人ですし、女性の地位ではきわめてレベルが高いのがノルウェイなど北欧諸国です。私はやはりインドを中心にお話を進めていきたいと思います。インドは上層の階層と多くの貧困層とで、まったく違うという特徴があります。でも最近の大きな出来事として、女性議員のクオータ制が上院・下院ともに可決したということは実に大きな出来事です。
:私たちはずっとこの制度を待ちかねていました。やっとインドはクオータ制で、国会・州議会の3割、市町村議会の半数を女性にします。インドは女性のエンパワメントがとても強い国です。

Q.私は国際女性会議(NGO)でインドの『焼かれる花嫁』のスライドを見ました。それから夫が亡くなると妻も一緒に焼かれるというサティなどの話を聞き、とても驚きました。もう法律で禁止されたと聞いていますが今はどうなのでしょうか?
A.インドの法律でサティー(寡婦殉死)は1829年に禁止されたのですが、まだ実際のところは残っています。持参金のダウリ廃止法も1961年法制化されたのですが、実際のところはまだなくなっていないですね。

Q.アニータさんには、日本の女性は どう写っているのですか?
A.日本の女性はポライト(礼儀正しい、上品な)方が多いという印象ですね。

(さらに詳しくは『女性と仕事ジャーナル』19号の誌上で展開します)

注:ノルウェイでは、1988年に「4人以上の構成員からなるすべての審議会・委員会・評議会などは任命・選挙を問わず、一方の性が40%以下となってはいけない」というクオータ制を導入しています。クオータ制は欧州諸国以外にも広がり、すでに南アフリカ共和国などで採用。韓国では2002年度の統一地方選から比例区選挙に導入されました。法制化や政党綱領などで何らかのクオータ制を導入している国は、約100ヵ国となっています。積極的に性差別をなくすために、暫定的にとられる制度です。

再び、NPOと2010年の春 「新しい公共」円卓会議、その後

政府税制調査会は4月8日、特定非営利活動法人(NPO法人)に対する支援税制の基本方針を決めるようです。NPO法人への寄付を促し、寄付金に応じた額を所得税から差し引く税額控除が柱となっています。NPOに寄付する場合、税制上の恩恵を拡大し、「草の根」の寄付をしやすくするのです。ただ所得税から寄付の何割を差し引くかは未だ決まっておらず、年末の税制改正論議を待つことになっています。

鳩山内閣は、1月の施政方針演説で「官が独占してきた領域を公に開き、新しい公共の担い手を拡大する」と表明しました。福祉分野などの公共サービスの新たな担い手として位置づけ、税制優遇などで活動を支援するということです。しかし寄付という考え方は日本ではなかなか浸透していません。日本と米国とで何が違うといっても寄付に対する考え方は、180度違います。日本はアメリカの100分の1しかNPOへの寄付がありません。額もそうですが考え方の違いが大きく、趣旨に賛同し、応援するから寄付というより、見るに見かねて可哀想だから恵んであげる、といった発想になりがちです。アメリカでボランティア活動も人件費換算をして寄付とみなしていることもあります。
認定NPOの申請をしようとした昨年4月、寄付概念(何の見返りもなし資金をこっそり出す)の厳しいことに驚いたことがありました。そして申請を諦めてかえってきました。

寄付というのは「市民から応援を得ている」という証になるものですが、「市民性」そのものが、日本社会にはまだまだ未知の分野かもしれません。お上(官)や村の長老や経済界が政治の中心で、市民やNPOが政治の中心になるという発想が自らも含めてないかもしれません。さらに、NPOの側にも「自らの手で寄付とボランティアに支えられて社会を変革する」という志が不明な点が多いといえます。

新しい春にNPOの活躍が更に求められるのですが、女性と仕事研究所も女性の再就職やシングルマザーの自立を促す活動と連動して「コミュニティカレッジの創設」に向かって、苦悩しながら道を開いていこうと考えています。

鳩山会館のさくら

鳩山会館のさくら

洋装の与謝野晶子

洋装の与謝野晶子

4月はじめ満開の桜を頭上に頂き、あわただしく歩き廻った東京でした。人材育成学会の研究会立ち上げのミーティングに参加、それから助成財団の説明会に参加、それから出版社で打ち合わせをして、文京区湯島の小学校と鳩山会館で桜を観て、文化学園(192年前西村伊作と与謝野晶子等が創設・日本で初めての男女共学の学校)でオープンキャンパスに突入、最後は有楽町で「AVATAR」を観て元気になって帰阪しました。

文京区立湯島小学校入学式

文京区立湯島小学校入学式

関西大学も桜トンネル

関西大学も桜トンネル