よく死ぬことは、よく生きること

-good death & high quality life-

あのさわやかな 笑い声が消えて  金谷千慧子

ますます鼻が高くなって・・・
「よく死ぬことはよく生きることだ」これはフリージャーナリストの千葉敦子さんの遺作である。1987年、乳ガンのため46歳で、ニューヨークで亡くなった彼女の生きざま、死にざまは、松井元さんと共通するものが多い。彼女は日本では、末期医療体制ができていないからニューヨークへ帰るといった。そして亡くなる3日前まで日本へ原稿を送り続けた。

このような真摯な生と死に直面すると、悲しみの涙というより、「がん」という試練に果敢な挑戦をいどみ、生命力を燃やし尽くした人間の神秘に対して、畏敬の念に身の引き締まる思いがする。

松井元さんはもうこれ以上痩せるところがないまで、身体は痩せていた。ますます首が長くなったようにみえたし、鼻は高くなったようにみえた。もういつものあのさわやかな笑い声は消え、声は出なくなっていた。死の前日には、全力をふりしぼってゆっくり、ゆっくりと手をかかげ、最後の握手を息子さんたちと交わしたという。その手にどれほどの愛と祈りが込められていたことだろうと思うと切ない。

ホスピスこそ

淀川キリスト教病院ホスピス病棟701号室での100日間は、『よく死ぬことは、よく生きることだ』の千葉敦子さんのタイトルそのままに、妻の恵子さんや息子さんたちをはじめ、看護を尽くされた身近な人たちには、凝縮された珠玉の毎日であったようだ。その意味では大きな、大きな人生を全うされたと羨ましい。 だれにもかわってもらえない自分の身体と自分の人生、自分らしく死を全うすることのすばらしさを松井さんは、身をもってわれわれに実証したのである。 ただ私は神を知らない。だから私は、松井元さんは人としての死を受け入れたのだと信じているのだが。その後、誰いうともなく彼のまわりから701号室の予約が殺到している。「松井元に続け」というわけである。実は私もその1人なのだが、彼は「よく死ぬために、よく生きたい」人たちの露払いを務めたのでもあった。但し、実際には予約の実現は容易なことではないらしい。

ホスピスケア(hospice care)は、死が確実視される終末医療患者に対して、治療のためではなく、心理的情緒的恐怖を少なくし、残された月日を人間らしく生きて死にたいという願いを精神的に援助するケアであるが、特に癌患者に対するホスピスケアがいまのところ多い。エイズ患者などへは、まだ全くといっていいほど手が差しのべられていない。鎮痛剤以外の投薬や注射を行わずに、医師と看護婦そしてカウンセラーや宗教者、ボランティアらによるケアが行われる。患者と家族を全体的に援助するのが特徴で、死後半年から1年間、遺族に対しても精神的な援助を行う。 わが国では入院施設としての病院や診療所は数カ所しかなく病床は40床以下にすぎない。緩和ケア病棟の指定を受けている病院は、全国で8カ所(1992年7月現在)しかないのである。アメリカでは入院だけではなく、訪問して行うホスピスケアが普及してきており、患者と家族がいっしょに過ごす宿泊施設が多い。 アメリカの医療制度は所得による格差のシビアなことでは問題はあるにしても(1993年9月22日の報道ではクリントン大統領は、国民皆保険の実施を力説しているが)、患者を人間として扱うという観点では日本の比ではない。

フェミニズムとホスピスケア

アメリカでもホスピスは1970年ころまでは3つぐらいしかなかったようだが、1990年には2000カ所を越えているという。この数の急増はフェミニズムの広がりと同じテンポである。大学のフェミニズムコースを(学科、コース、学部、大学院)などはもっと徹底して、フェミニズムスタディーズのない大学は全くない。イエール大学(ヒラリーの出身)のリブムーブメントの先鋒が今、国民皆保険制度を実現する機を迎えているのである。

これは患者を人間とみる基盤と、「黒人」「女性」を人間といる基盤は共通であるということの端的な表れである。わが国では、未だ医師が患者を治療の対象物としかみていない。もっといえばカネの対象かもしれない。患者を人間とみる時代の訪れと、女性が性的対象、家事育児と補助労働と低賃金と扶養家族と老人介護の枠に閉じ込められることから解き放たれる時代の訪れはきっと一致する。それはホスピスケアが一般化する時代でもある。

ところで松井元氏は男性であった。彼は身体が小さくなるにつれ、ますます王者の風格よろしくなっていくようだった。ベッドは玉座のごとく、病者の王に献身を尽くす女性はマグダラのマリアのごとく、見識深い妻はマリアのごとく、彼の生命の蝋燭を灯し続けるために、まわりのすべては時間を尽くすという深い宗教的ハーモニーがあった。

恵子さんが『「お父さん(元さん)ほど幸せな人はいないよ」って言ってるねん』っていう言葉は本心だろうと思う。

女性と癌死

私はときどき松井元氏が女性だったらどうなんだろうと病室をでるとき、ふっと足が止まった。シングルでやはり癌で急逝した女性裁判官、離婚後小学生と保育園児を残してやはり癌で逝った友人、薬のないマニラへ抗癌剤のカンパを募り、幾度となく送ったアジア女性運動のメンバーたち。フィリピンから届いた「PAIN(痛み)」という詩に涙がとめどなく流れた。そして50歳でやはり卵巣癌で死んだ私の母親も決して納得のいく死を迎えてはいないと、今も思っている。

私は母親の再発に1年休学届けを出した。「もうあの検査・検査はいや!家でいたい」と病院へはいこうとしなかった。病院の支払がどれだけ家計を圧迫するかをわかっていたはずだし、家に妻がいないと夫の帰宅が遠のくことも経験上わかっていた。決してわがままからではない選択だと思ったが、告知なしの自宅の24時間のつきあいは、本当に、本当に、苦しかった。痛みを分かちあうこともできず、そらぞらしい慰め言葉しかいえない。それでいて自分の時間が空費していくのもたまらなくもったいなかった。父親は(男は)稼ぐこと理由に毎日家をでていく。

昔、母はベテラン看護婦だった。末期には何度か腹水を抜き取り、そのタオルをバケツにつけると真っ赤に染まった。私は恐怖を隠してゴシゴシ洗った。すべての病態を患者もわかりながら、「うそつき」看護を、貧乏と疲労と恐怖とともにやっていた。

「死」を忌み嫌う生死観と死を不浄視する死生観と「告知」に対するタブーが重なっていては、決して質の高い「生」は生まれない。

母親の足元に座り机を置いて「ヴォーボワール」をとばし読みしていた私に、「かーちゃんとあんたは、30年、年が離れているんやから、30年は進んだ生き方をしてね」というや、布団を引き上げて静かに母は泣いた。私は勢い込んで「私は子どもが生まれてもずっと仕事をしたい。保育所がなかったらつくってでも私はずっと仕事をしたい」といった。これは途中で専業主婦になってしまった母親の生き方に対する(事情はよくわかるのだが)いやみに聞こえたかもいしれないが、別れが近づいている母親へ、娘がどう生きていきたいと思っているかどうしても伝えたかったのである。

母親は「白い百合を活けてくれたら、もうそれだけでいいのよ」といい足した。 いくつものたまらない女性の癌死。女性の癌死は王者の死にはなりえないのか。いまもなお。そしていつまでもなのか。

さわやかな笑い声が、今も耳に響く・・・

松井元さん、彼の善良そのもののようなさわやかな笑い声が、今も耳に響く。 「ほんとにそうなんですかね!」と、あからさまには決して否定しないし、声のトーンは結構高いが、しかし相手を配慮しての発言だというのがはっきりにじみでる、あの印象的なさわやかな笑い声が今も聞こえる。 笑い声のさわやかな人は得だなと、彼と話していて感心したことが幾度となくなる。対面者を打ちのめさない、妥協点をさぐる方途があるといった価値をもつ。しかし一方で、「はっきりしない奴だ」とか「先手をかけない生き方はずるいぞ」と思ったりもしたものだ。そして守りに手堅いタイプなんだとも。しかし、ここは1つ、いつまでの彼のことを記憶しておきたいためにも、また私自身の対人関係がより豊かになるためにも、あのさわやかな、相手を配慮した笑い声を私への遺産としていただくことにする。

ところでこの際、この場を借りて、私の死に対する予感と対応を書かせていただこうと思う。

私の生も終盤に向かってきたが、いま具体的にやりたいことは、女性の自立を応援できる理論と手段を提供できる「女性と仕事研究所」である。資金のない状態で夢想に終わる可能性は大なのだが、女性の再就職という活動の延長に、もう少し積極的に、直載的に、効率的に女性と仕事のネットワークを充実させたいと願っているのである。

私はいまのところは、「よく死ぬことは、よく生きることだ」ではなく、「よく生きることは、よく死ぬことだ」と信じたいのである。 「よく生きる」というのは、なによりも人と喜びを共有できることである。私はなによりも人が好きだ。いままでのところ、私は涙は人と喜びを分かち合うことで共有しえてきたと信じているが、これからも多くの人(その多くは女性である)と大きな喜びを分かち合いたい。その向こうに死があるならば、死は幸福そのものである。

「わたし」以外の人(もちろん家族にも)に「わたし」の死に対しての涙は決して不要である。「わたし」以外の人に「わたし」の死への恐怖も不要である。生きることは分かち合えても、分かち合えないものは分かち合えないのだろうから。そのときには「よく死ぬことは、よく生きることだ」としめくくって灰になろう。完全な灰だけに。

1993年9月27日